【エモ訳】徒然草第三十段「『忘れられる』ということの、本当の切なさ」

徒然草

今回は、受験でも超頻出の有名すぎるエピソード、徒然草第三十段を紹介するね。

突然だけど、大切な誰かを失ったあと、世界が何事もなかったかのように動いていることに、違和感を感じたことない?

兼好さんは、「人の死」そのものよりも、その後の「時間の残酷さ」について、誰よりも鋭く見つめていたんだ。

いわば、記憶が薄れ、お墓が荒れ、最終的にはその人がいた形跡さえ消えてしまうという、究極のリアリティについてのお話。

それでは、胸が締め付けられるほどリアルな無常観を、一緒にエモ訳していこう。

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徒然草第三十段の原文

この段の原文は以下の通りです。 一緒に読んでみましょう。

人のなきあとばかり悲しきはなし。

中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしくせばき所にあまたあひゐて、後のわざどもいとなみあへる、心あわたたし。日かずのはやく過ぐる程ぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、たがひにいふこともなく、我かしこげに物ひきしたため、散りぢりに行きあかれぬ。もとのすみかに帰りてぞ、更に悲しきことは多かるべき。

しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞなどいへるこそ、かばかりのなかに何かはと、人の心はなほうたておぼゆれ。

年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しといへることなれば、さはいへど、そのきはばかりは覚えぬにや、よしなしごといひてうちも笑ひぬ。骸はけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかりまうでつつ見れば、程なく卒塔婆も苔むし、木の葉ふりうづみて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

思ひ出でてしのぶ人あらむほどこそあらめ、そもまた程なくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人はあはれと見るべきを、はては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。そのかただになくなりぬるぞ悲しき。

徒然草第三十段のポイント解説

徒然草第三十段のイメージ2

この段では、「死後の時間の経過」を4つのステップで描いています。

  1. 葬儀のバタバタとした忙しさ。
  2. 日常に戻った瞬間の、逆に増していく悲しみ。
  3. 記憶が薄れ、法事の場でも笑い声が混じるようになる変化。
  4. そして、お墓そのものが消え去り、自然に還る「無」。

兼好法師は、「法事のルール(縁起)ばかり気にする周囲の冷めた空気」に嫌悪感を示しつつ、最終的にすべてが忘れ去られていくことの虚しさをおおいに嘆いているんです。

徒然草第三十段の📘キーワード解説

  • 中陰(ちゅういん):亡くなってから四十九日までの期間。いわば現世とあの世の境目にいる特別な時間。
  • 去る者は日々に疎し:亡くなった人は、日が経つにつれて人々の記憶から薄れていくということ。したがって避けられない人間の本性のこと。
  • よしなしごといひてうちも笑ひぬ:とりとめもない雑談をして、ふと笑ってしまうこと。つまり人間の記憶の残酷さの象徴。

徒然草第三十段のエモ語訳

徒然草第三十段のイメージ2

この段をエモ訳してみました。 一緒に読んでみましょう。

葬儀のバタバタと、訪れる静寂

人が亡くなったあとほど、悲しい瞬間ってないよね。

四十九日の間、親戚が集まってバタバタと葬儀の準備をするんだけど、その時間ってマジで秒で過ぎていく。

けれど最後の法要が終わると、みんな冷たいくらいあっさりと、荷物をまとめて自分の生活に戻っていくんだ。

むしろ、一人で元の部屋に帰ったあとのほうが、「もうあの人はいないんだ」って現実が押し寄せてきて、悲しさがレベチで更新されるんだよね。

「マナー」より「心」が大事っしょ?

そんなドン底にいるのに、周りは「四十九日が終わるまではこれをしちゃダメ」とか「縁起が悪い」とか、形式的なルールばっかり押し付けてくる。

ゆえに兼好さんは「こんなに辛い時にマナーとか気にするの、マジで意味わかんないし嫌な感じ」って、そんな世間の冷めた空気にイライラしてる。

だって大切なのは形じゃなくて、その人を想う心のはずでしょ?

記憶の「上書き」と自然の冷たさ

年月が経てば、もちろん忘れるわけじゃないけど、どうしても日常に紛れていく。

法事の席でも、いつの間にか全然関係ない雑談が始まって、ふと笑い声さえ漏れたりする。

お墓に行ってみても、すぐに苔が生えて、落ち葉に埋もれていく。

たとえどんなに「一生忘れない」って思った人でも、最終的に語りかけてくれるのは夜の月と風の音だけになっちゃうんだ。

だから記憶が薄れるのって、一番残酷なアップデートなのかも。

最後に残る「無」

その人を覚えている人が生きている間はまだいいけれど、その人たちもいつかは死んちゃう。

すると名前すら誰かわからなくなって、春の草が生い茂るだけの「ただの場所」になる。

はては、お墓の松の木は薪として切られ、お墓そのものも耕されて田んぼになっちゃう。

その人がいた証拠すら完全になくなってしまうこと。 それが、どうしようもなく悲しくて、エモ死しそう。

徒然草第三十段の言いたかったこと

兼好法師がこの段で言いたかった結論は、

徒然草第三十段ポイント

「忘れられること」は残酷だけど、それがこの世の避けられないリアルである。したがって、今生きている私たちが、誰かを心から想える時間は、実はめちゃくちゃ短くて尊いものなんだ。いわば、ルールを守ることより、今この瞬間にその人を心から懐かしむこと。たとえ将来すべてが消えてしまうとしても、今抱いている「あはれ(切なさ)」を大切にすべきである。

ということです。

徒然草第三十段のキーワードは、「そのかただになくなりぬるぞ悲しき」

だからこそ、空が暗くなっていくマジックアワーを眺めながら、「今はもう会えない大切な人」のことを、ゆっくり思い出してみよう。

そうしてその人を想うことで、あなたの心の中にだけは、その人の形が鮮明に蘇るはずだよ。

大切な人が亡くなった時の本を読んだ後の感想を「ブクスタ」で書くと、誰かのためになるかも。

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