徒然草第四十七段は人間の不器用な愛おしさを感じるお話だよ。
好きな人や大切な人のことって、離れていてもつい考えちゃうよね。
でも、その愛が強すぎて、周りから「え、ちょっと大丈夫……?」って心配されるレベルになっちゃったらどうする?
700年前の兼好さんも、そんな「愛がバグっちゃった」おばあちゃん尼さんに出会ったみたい。
徒然草第四十七段の原文
兼好さんが清水寺へお参りに行ったときに見かけた、ちょっと不思議な光景。
或る人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがらくさめくさめといひもて行きければ、尼御前、何事をかくは宣ふぞと問ひけれども、いらへもせず, なほいひやまざりけるを、たびたび問はれて、うち腹立ちて、やや、鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかしといひけり。有り難き志なりけむかし。
徒然草第四十七段のポイント解説
当時は「くしゃみ」に対して、今とは全然違うシリアスな受け止め方があったみたい。
- くさめくさめ:当時は「くしゃみをすると寿命が縮む(あるいは死ぬ)」と信じられていて、それを防ぐ魔除けのおまじない。これが現代の「くしゃみ」の語源になったとも言われているよ。
- 養ひ君(やしないぎみ):自分が乳母として大切に育てた、大事な坊ちゃんのこと。
- 児(ちご):お寺に仕える、まだ髪を結っていない少年。比叡山で修行中の坊ちゃんは、彼女にとっていつまでも可愛い「我が子」なんだね。
徒然草第四十七段のエモ語訳

え、何そのおまじない!?っていうツッコミからスタートするよ!
ずっと何かを呟いているおばあちゃん
ある人が清水寺にお参りに行ったとき、一緒の道を進んでいたおばあちゃん尼さんがいたの。
その尼さん、歩きながらずっと「くさめ、くさめ……」って、小声でブツブツ呟いてるんだよね。
周りの人は「尼さん、さっきから何ブツブツ言ってるの?」って不思議に思って聞いたんだけど、最初は全然答えてくれない。
ついにキレて明かした「愛の重さ」
それでもしすこく「ねえ、何言ってるの?」って何度も聞かれたもんだから、尼さん、ついにちょっとキレちゃって。
「もう!くしゃみした時におまじない(くさめ)を唱えないと、その人死んじゃうんだからね!」
「私が育てた大切な坊ちゃんが、いま比叡山でお寺の小姓をしてるんだけど……。もしかしたら、今この瞬間にも、あの子がくしゃみをしてるかもしれないでしょ!だからこうして唱えてあげてるの!」
いやいや、比叡山までどんだけ距離あると思ってんの!?
愛情のスケール、デカすぎなんだけど!
さすがにそこまでは届かないでしょ!ってツッコミたいけど、本人は大真面目。
周りの人も、その勢いにきっと圧倒されちゃっただろうね。
徒然草第四十七段、言いたかったこと

兼好さんはこのお話の最後に、こう書き残しているの。
有り難き志なりけむかし。(めったにない、尊い愛情なのだろうなあ。)
ここから読み取れるのは、兼好さんの「静かで優しいまなざし」だと思うんだ。
側から見たらちょっとおかしいし、やりすぎなんだけど、誰かをそこまで一途に想えること自体は、すごく尊くて美しいこと。
兼好さんは、そのおばあちゃんを馬鹿にするわけでもなく、「滑稽だけど、その奥にある深い愛情は本物だよね」って、人間の不器用な温かさを静かに見つめていたんじゃないかな。
徒然草第四十七段、私はこう思う

乳母とはいえ、子どもを想うあまりに過保護になりすぎて、周りから「ちょっと変な人」に見えてしまう。
これって、現代の親心や人間関係でもよくあることだよね。
客観的に見るとやっぱり、「ほどほどに子離れする」っていう、ちょうどいい距離感を保つこともお互いのために大切なのかな、って私は思うの。
それでも、そんな周りを困惑させちゃうほどの「重すぎる愛」を、700年前の人たちも「変だけど、なんか憎めないね」ってクスッと笑いながら眺めていた。
人間って、昔からそういうチグハグな愛おしさを持って生きてるんだな、って思うと、なんだか少し心が温かくなるよね。
子育てについての本とか読んだ後には、ブクスタに一言残してこようと思います。



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